ライ麦畑ふうに

日誌、キャッチャー風に→2008-04-26/A4メモより

■いつも「ハアハア」言っている。-つまり、大らかさとはかけ離れている。頭の中で色々、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、がんがんわけもわからず言葉を繰りだし、頭のなかで言葉が飛び交うが、かといって自分の体験や、感性が深められるわけでもない。-木田元と言う人が、新人生論ノートという本の中で、普通人間は浅い所でしか、ものを感じていないと言っていたが正にそれだ)→同じ言葉を時と場所を変えて、ぐるぐる回して、何度も思い出しているだけだ。「俺はいけてる」とか「自分は駄目な人間だ」とか、何がどういけてるのかなんて、深く考えてはいない。そのときの気分次第で、駄目だとかいいだとか自分で勝手に自分を決め付けているだけだ。こんな時、いろんな情報や知識なんか、全く何のあてにもならない。何がどう駄目なのか、本当の価値に照らして何てことは考えてみる機会も力も持ち合わせていない。大人になると「金がない、金がない」と繰り返し、自分に語り掛けているが、自分がどうしてそういう貧乏な金の無い境遇にあるのか、その原因を深く追求する事も無い。せいぜい、「誰々のせいで、おれは未だに貧乏なんだ」とか「あそこで人生行路が折れ曲がったんだ」と人のせいにするのが関の山だ。

■ マージャンゲームで、溜飲を下げる。だが、どんな溜飲なのか分かっては居ない。自分がどんな不平、不満をもっているのか、進んで明らかにもしない。気晴らしも別に悪いことではあるまいが、それだけでは、目的は達成しないことは良く分かっているので、心から遊び楽しむことは出来ない。〜負けると無性に腹が立つ。前にはこんなことは無かった?。(その前は、リアルアーケードで、ダウンロードしたバーガーつくりのゲームにしばらく夢中になっていたが、このゲームときたら、必ず勝てるということが分かっているので、ありきたりの勝利には、何か面白くない。)一番は一心不乱にゲームの目標の「勝つ」ことに向かって、集中する。夢中になる」だ。憂さ晴らし?
 「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンが(昨日)言っていた、ゴルフの勝敗に一喜一憂したり、自分の自動車が1ガロンで何マイル走れるかどうかという、議論に夢中になっているいんちきな大人と、俺はなんら変わらない。

■ そもそもは、計画の建て直し、「輝かしい未来」のための画策だったのだが、わだかまっているもの、そうした停滞した、高揚感の感じられない状態の中で、「あれれ?」と思っているものに形を与えるというか、その正体を見さだめたいと思っているうちに、いつもの「ハアハア病」に取り付かれる。で、この文章の書き出しに戻ってくることになるというお定まりの仕掛けだ。
■ 同窓会の話。
■ 実はキャッチャーで、作者自身もひっかってしまった、危険性はそこに有る。しかし危険性とは何か?感性に対する、こっちへいったら判断に狂いが生じる、あまりいいことが有りそうにもない。囚われるというわなのことか、誰がそのわなをしかけたのか?うまく言いえていないな。簡単に言えばフィクションが書き手を超えて、書き手本人をいかれた野郎にしてしまったということだ。作者が映画に怨みを持っているというのも、なんだか面白い。
■ 思えば、僕の人生は、何かに夢中になっているか、つまりアホのようにマージャンゲームに夢中になっているとか、次になにをしなければならないのかとか、つまり「ハアハア」して居るか、誰かにせっつかれいるか、なんだか、目覚めた時には、忘れてしまった夢の中に居るとか、もっと見たいなと思うときも、あれば、夢そのもに揺り動かされて、跳ね起きる時もある。本当に眠って棒のように転がって居るか。かみさんに言わせれば、寝ている時も、眉間に皺をよせているそうだ。

■ 考えている時だって、別に深いところでものを考えているわけでも、無いのに、ただ、いろんなことを類推したり、邪推したりして、何か気の利いたことを言おうとしたり、その結果、出逢った人に、怒りと幻滅、落胆を与えることにまる。どどのつまりは、「もうこいつには二度と逢いたくない」と思わせることになる、」
■ イヤー、最悪の人生だね、こりゃ。